2012-02-29
豊原時秀
本来は公里か時元の子をすべきでしょうが、後が続きますので、続かない時忠の子を。
豊原時秀。読みは「ときひで」でしょう。
父は時忠、弟に時道がいます。(系図)
生年はわかりません。
『体源鈔』によると、時秀という名は勅名であって、堀河天皇の時代、11歳にて元服した際、父に伴われて初めて参内した。時の頭出納は江帥(大江)匡房で、帥が出納に「何事により召したのか。」と聞くと、出納は「時忠の子が元服後の初参で、もしくは名を給うべきか。」と。殿上にいると、「時忠の子、名を給うべきである。選び進むべし。」と仰せられ、帥が時光の「時」と秀高の「秀」を取って、「御時に秀でなさい。」と仰せられた、とあります。ただし、「秀高」はよくわかりません。
『続教訓鈔』には、時元の太食調入調の相伝に疑義を唱えていた旨、交丸を相伝した旨が見えます。
白河天皇の時代、時秀や藤井清方などを呼んで、よく楽を覚えている者と聞こえるが、時元を判者として、一人ずつ吹かせて善悪を判定せよ、ということになった。どちらもよく知っている者だったのでうれしく思って吹いたが、秦王を吹くに、半ばを忘れて吹いた。昔は横笛吹きに付かない限りは吹かなかったのに、このような事をするからだ、という記事が『続教訓鈔』にあります。ただし、白河天皇の在位は1073-1087なので、時代が違います。院政期でしたら、-1129ですが、「白河院の時代」とは書かないのですが、よくわかりません。
永久元(1113)年8月6日の左大臣殿(俊房)における花供で、父とともに笙を吹いています。(『長秋記』)
元永元(1118)年閏9月22日の宇治の阿弥陀堂での十種供養でも笙を演奏しています。(『中右記』)
しかしながら、天永元(1110)年以降が残る『楽所補任』に名が見えません。
『系図纂要』では、「雅楽府生 允」とありますが、雅楽府生はないので、近衛府生と雅楽允だったのでしょうか。よくわかりません。
『鳳笙師伝相承』によると、弟子に藤原通憲「少納言、法名信西」がいるとされます。
没年もわかっていません。
豊原時秀。読みは「ときひで」でしょう。
父は時忠、弟に時道がいます。(系図)
生年はわかりません。
『体源鈔』によると、時秀という名は勅名であって、堀河天皇の時代、11歳にて元服した際、父に伴われて初めて参内した。時の頭出納は江帥(大江)匡房で、帥が出納に「何事により召したのか。」と聞くと、出納は「時忠の子が元服後の初参で、もしくは名を給うべきか。」と。殿上にいると、「時忠の子、名を給うべきである。選び進むべし。」と仰せられ、帥が時光の「時」と秀高の「秀」を取って、「御時に秀でなさい。」と仰せられた、とあります。ただし、「秀高」はよくわかりません。
『続教訓鈔』には、時元の太食調入調の相伝に疑義を唱えていた旨、交丸を相伝した旨が見えます。
白河天皇の時代、時秀や藤井清方などを呼んで、よく楽を覚えている者と聞こえるが、時元を判者として、一人ずつ吹かせて善悪を判定せよ、ということになった。どちらもよく知っている者だったのでうれしく思って吹いたが、秦王を吹くに、半ばを忘れて吹いた。昔は横笛吹きに付かない限りは吹かなかったのに、このような事をするからだ、という記事が『続教訓鈔』にあります。ただし、白河天皇の在位は1073-1087なので、時代が違います。院政期でしたら、-1129ですが、「白河院の時代」とは書かないのですが、よくわかりません。
永久元(1113)年8月6日の左大臣殿(俊房)における花供で、父とともに笙を吹いています。(『長秋記』)
元永元(1118)年閏9月22日の宇治の阿弥陀堂での十種供養でも笙を演奏しています。(『中右記』)
しかしながら、天永元(1110)年以降が残る『楽所補任』に名が見えません。
『系図纂要』では、「雅楽府生 允」とありますが、雅楽府生はないので、近衛府生と雅楽允だったのでしょうか。よくわかりません。
『鳳笙師伝相承』によると、弟子に藤原通憲「少納言、法名信西」がいるとされます。
没年もわかっていません。
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