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2017-03-01

福貴君

福貴君は、狛氏の系図上、安蔵王の子とされますが、安蔵王の後を弟が継いでいることから、実際どうであったかは不明です。『梁書』には延という子があったようですので、歴史書に記載のない子があったのかもしれません。

『新撰姓氏録』には、河内国諸蕃大狛連の来歴の一つに「同(高麗)国溢士福貴王の後」との記述があります。溢士の意味はわかりませんが、「王」とあるので王族なのでしょう。ただし、中国皇帝に封じられた者が「王」で、その一族が「王」と別に「○○王」と名乗ることはありませんので、王族の称号としては「君」の方がふさわしいように思います。あるいは、『梁書』には延が継いだとあることから、この延が福貴王で、廃位されて福貴君となったのかもしれません。

伯父の安原王が高句麗王位を継承したため、日本に亡命してきたのでしょうか。

河内国の大狛連の祖とされます。河内の大狛連には、他に、高麗国人伊利斯沙礼斯を祖とする者があったようで、いずれかは不詳ですが、『日本書紀』によると、天武天皇10(681)年4月12日、大狛造百枝(おおこまのみやつこももえ)・足坏(あしつき)は、山城狛烏賊麻呂(やましろのこまのいかまろ)などとともに、連の姓を賜っています。また、天武天皇12(683)年9月23日に、大狛造など38氏に連の姓を賜っています。

なお、河内国には大県郡、若江郡、渋川郡に巨麻(こま)郷がありました。大県郡巨麻郷は現在の柏原市本堂周辺と思われ、大狛神社があります。若江郡巨麻郷は、現在の東大阪市若江周辺と思われ、巨摩橋(こまばし)、巨摩廃寺遺跡があります。渋川郡巨麻郷は八尾市久宝寺周辺と思われ、許麻(こま)神社があります。なお、河内には、高麗国須牟祁王を祖とする「狛染部」と「狛人」という姓の一族もいたようです。
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